FF14 黄金のレガシー 感想

FF14パッチ7.0「黄金のレガシー」のメインシナリオクエスト(MSQ)を終えた時点での感想です。

文章だけですが、物語の核心部分のネタバレがあり、7.0をクリア済みの方を想定しています。
未クリアの場合はブラウザバック推奨です。

なお、この感想は7.0クリア済みの方を想定したネタバレ前提の内容なので、ストーリーを順に追って逐一感想を述べるのではなく、印象に残った点を気ままに語るスタイルで行きたいと思います。

1 7.0のテーマは何だったのか?

FF14 黄金のレガシー(パッチ7.0)のテーマをひとことで表すなら、私は 死生観 がピッタリかなと思いました。

  • 人はどう生き、どう死んでいくのか
  • 人が「死」に向き合ったときに露出する価値観や感情

といった類の話。

突き詰めると「自分はナニモノなんだ?」(自我とかアイデンティティとは何か?)という「究極の厨二病的な問い」に行きつくような、ちょっと抽象的すぎで、下手すると焦点がぼやけてしまう、かなり扱いづらいテーマに挑んだのかなという印象です。

そう考えるに至った理由は以下の通りです。

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(1)「継承の儀」編(前半)

パッチ7.0の前半部分は、事前に明かされていた通り「トライヨラ連王国」を舞台とした王位継承レース(継承の儀)。

今回のヒカセンは継承候補者の一人である王女「ウクラマト」の協力者(助っ人外国人)という部外者的な立場なのと、素直で竹を割ったような性格のウクラマトが小気味よく成長していく話が中心なこともあり、ぶっちゃけ前半の主人公はウクラマト

ただ、私は「ヒカセンの夏休み」のコンセプトに合わせて「グラサン・水着・ビーチサンダル」のミラプリでメインを進めていたので、半分バカンス気分の「ヒカセン諸国漫遊記」といったノリがほどよく出て楽しかったです。

ということで、「継承の儀」編(前半)自体は、死生観がらみの話は伏線を張る程度の内容が中心で、どちらかというと今後の冒険の舞台となるトラル大陸を紹介することに力が入れられているように思います。
新生編(パッチ2.0)の再現ですかね。

そんな中で前半のテーマをあえて挙げるなら、「一人でできることなんて、たかが知れてるよ」という意味の「連帯の重要性」とか「孤立の危険性」ということになるでしょうか。

当たり前すぎて「道徳の授業かよ」「説教臭い」とか、「(テンポよく話が進むことの裏返しとして)あまり深堀りされず、ありきたりの展開でつまらない」といったマイナス評価も当然あると思います。

一方で、私は、

  • 古代中国の楚漢戦争における項羽と劉邦の対比
  • 日本の戦国時代における毛利元就の三本の矢の話
  • 個人的な経験で恐縮ですが、前の会社の係長昇格試験で、当時の上司から「試験官との面談で、仕事の成果を『全部自分ひとりでやった』なんて絶対言うなよ(そんなものは大した成果ではないか、自分の勘違いかのどちらかでしかない)」と指導を受けたこと


などが頭をよぎりました。

きっと、探せば似たような話は世界各地にあるでしょうし、人間社会に根づく不変の真理みたいなものかなーと。

なので、 王としての器が問われる継承レース という展開にふさわしいド直球のテーマだと思いますし、それを クドくならない程度にコンパクトにまとめてウクラマト(とコーナ)の成長を描いた というのが前半に対する私の印象です。

(2)西部劇編

後半に入る前に、その橋渡しとしていわゆる西部劇風のドタバタを挟みます。

この西部劇の後に怒涛の急展開から物語の核心部分(後半)に突入していくわけですが、「この西部劇いらなくね?」という評価もあるみたいです。

考えられる理由としては、継承の儀が無事ウクラマトの勝利で終わったあと、この場面の描かれ方が「思いのほか予定が空いたし、せっかくだから北に行ってみるか」程度の軽い雰囲気だから、というあたりでしょうか。

しかし、ナミーカ(ウクラマトの乳母)やエレンヴィル(7.0のヒカセンの相棒NPCで、物語の語り手役)といった後半のキーとなる人物の深堀りみたいな側面もありますし、話としてやはり必要だったんじゃないかなと思います。

後半の舞台が現実の北米地域をモチーフにしていること踏まえれば、西部劇も格好のネタではあるでしょう。

(3)「新生アレクサンドリア連王国」編(後半)

で、いよいよ物語の核心である後半に突入するわけですが・・・

a. 不気味な死生観

まず、スフェーンをはじめとする新生アレクサンドリア連王国の人々の死生観は、思わず心がザワつくような、嫌悪感を引き起こす類のように感じます。

  • 過去から現在に至るまで存在した/する人々の記憶(というか人格?)をデータとして保存
  • 事故等で一度死んでも、そのデータを再度肉体にダウンロードすることで直ちに蘇生可能
  • それどころか、寿命を迎えて死んだ後も、そのデータをもとに生成された人工知能が謎技術による実体化を果たし、あたかも生前の「その人」と同じように生活を続ける永遠人(とわびと)という存在

我々の価値観や倫理観からすると、にわかには受け入れがたい世界です。

しかも、「寿命前の死からの蘇生」にも「永遠人の実体化」にも「別の人の魂(エネルギー)」が必要なため、いずれ魂資源が枯渇して立ち行かなくなるのは火を見るより明らか
(実際、作中でそのような描写が多々ある)

そして、最初の永遠人として生み出された女王スフェーンは、魂資源の枯渇の問題を、他の鏡像世界の人々から魂を奪う(殺す)ことで解決しようという
(何の工夫もなく、解決策というにはあまりに稚拙な極論・・・)

そうはいっても、スフェーン(を模した永遠人)自体は、民を心から愛した生前の彼女を再現したもので、その価値観や思いを理解できる部分はある。
(少なくとも自分はそうでした)

そのため、スフェーンに感情移入できたなら「止めてやらねば」という気になるだろうし、スフェーンに共感できなくとも「さすがにこれを見て見ぬふりはできんな・・・」という気分にはなったのかなと。

私はどちらかというと後者の立場でしたが、スフェーンに投げかけるセリフを選択する場面のいくつかで、彼女の人格に配慮するような選択肢と、あくまで「お前は機械にすぎない」という趣旨の突き放す選択肢が混在していたのが印象的でした。

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b. 最終エリア「リビング・メモリー」

また、やはり最終エリアの「リビング・メモリー」での一連のクエストは、個人的には一番強烈に感じました。

最終盤の流れは、ここまで一緒に旅をしてきた各NPCの親が実は永遠人として「リビング・メモリー」で生活しており、各人が 親との死別 を経験していくことになります。
(やっていることはあくまで「記憶データの消去」なので、「死別」というのも比喩的・疑似的な表現でしかないのですが、描かれ方はまさに「親との死別」でしょう)

見方によっては「親子愛の話を連続でやらされて、もうお腹いっぱいだよ」という拒否反応も当然あるんだろうなと思います。

ただ、あくまで私の場合はですが、永遠人の存在が認知症の親と重なったんですよね。

同じ部屋に確かに存在し、姿・形・声も間違いなく自分の親なんだけど、不意に「ひょっとして、この人は今、別の時代・場所にいるのか?」と思うような言動を取ることがある。
言ってることを理解できない理由が、自分が親の過去を知らないだけなのか、本当にただの脈絡のない独り言なのか、その区別もあいまい。

初めて「自分の親が認知症だ」と認識した日の夜は眠れませんでしたし、そのあともしばらく動揺が続きました。
今思い返すと、やはり「親」ってのは「自分」を構成する重要な要素で、それが不意に自分の手の届かない場所に隔絶されちゃったみたいに感じて、慌てたんだろーなと。
(大げさに表現するなら「自我の動揺や危機」みたいなことですかね)

で、今は、親に対しては「なるべく不安を感じずに穏やかに日々を過ごしてほしい」(それこそリビング・メモリーで暮らす永遠人のように)と思いますし、翻って今後の自分を考えたときに「残された時間で何をやろうか?」という意識が強くなったように思います。

「残された時間」というのも、今どきは「自分の死まで」ではなく、いわゆる「健康寿命が尽きるまで」と考えた方がよさそうですし、そうすると残り時間がさらに減るってことだよなぁ・・・などなど。

ということで、「なるほど、確かに『親との死別』って、死生観とか自我を強く意識するタイミングかもしれない」と思いながら最終盤をプレイしていました。

  • (すでに乳母との死別に心の整理をつけたはずなのに)リビング・メモリーで永遠人となった乳母と再会し、思わず「もう一度声を聞きたかった」と喜びが漏れたウクラマト
  • 王国と王族(忠実な騎士にとっては親に匹敵するのかも)を護ることに身命をささげたオーティスが、祭りの芝居中、王女スフェーンの死を思い出し言葉に詰まった場面
  • 両親と別れる最後の場面で、三つ葉の耳飾りが赤子の自分に託された意味を、(わざわざ言葉にせずともわかりそうなものなのに)問わずにいられなかったクルル
  • 母親と別れる最後の場面で、自然本来の流れに還りたいという、至極まっとうな母の選択に対し、(反抗期の少年のように)思わず声を荒げて抗議したエレンヴィル

いずれも、各NPCの「自我が動揺する場面」だったのかなあと。

ただ、一方で、「親との死別」ってめちゃくちゃ個人的(個別具体的)な経験なわけで、そこで自覚する死生観とか自我の動揺もめちゃくちゃ個人的で千差万別だと思うんですよね。

なので、正直、7.0のストーリー描写に、果たしてどれだけの人が共感するだろうか(リアリティを感じるか)と考えると、「響かない人には全く響かないんだろうな」とも思いました。

私はとても良かったんですけどね。

(4)クリア直後に残った疑問

a. MSQを終えた直後の第一印象

ゾラージャ意味不明すぎんだろ・・・

クリア後、極ゾラージャを開放するため異邦の吉田さんに話しかけたところ、「偉大な父を越えられず道を誤った~」みたいなセリフが出てきたかと思います。
(録画してなかったのでうろ覚えですが)

そうすると、ゾラージャが「父親コンプレックスを拗らせて狂った」という、思春期の暗黒面を限界まで煮詰めたみたいな話なのか・・・?

にしても、あの強くてカッケェ男前の連王グルージャジャが、養子のコーナ(次子)やウクラマト(末子)と区別して、実子のゾラージャ(長子)にだけ厳しく当たっていたみたいな描写はない。

どちらかというと、3人とも分け隔てなく「家族/親子」としての関係を築き、すさんだ家庭環境とはほど遠い、3人の誰にとっても「暖かい家族」だったというのが素直な解釈だよなあと。
(ただ、ゾラージャ/グルージャジャの父子関係と、実子(ゾラージャ)/養子(コーナ・ウクラマト)の兄弟関係についてはほとんど描写がないのも確かで、現時点では「真相は不明」というのが正確かもしれません)

であれば、ゾラージャの抱えた闇が「父親コンプレックスを拗らせた狂人」という説明だけでは、うーん、、、なんか辻褄が合わない。

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b. ゾラ―ジャの狂気

では、ゾラージャが狂った原因って何かあったかな?と改めて振り返ると、、、

双頭は子を成さない という通念に反し、双頭の連王グルージャジャの実子として 武の頭の顔立ちに、理の頭の鱗を持ち合わせて生まれてきた「奇跡の子 ゾラージャ」

本編のストーリーから垣間見えたのは、長子ゾラージャの自我(アイデンティティ、自分らしさ)が「自分は奇跡の子である」ということと、「それを証明することに固執していた」ことでした。
(そもそも、そんな大それた自我をどうやったら獲得できんだよ?という話ですが)

それが王位継承レースを通じて急速に成長した養子コンビに後れを取り、最後の試練では父の全盛期を再現した幻影に一人で挑んであえなく敗れ(そりゃタンクLB3が必要なのにDPS一人じゃ勝てっこないわなと)、「奇跡の子」にあるまじき ”大失態” を犯してしまう。

その結果、彼の自我は崩壊。

こんな感じでいったん自我が崩れたら、人はどうなるのか?

ふつうは新たな自我を模索し獲得するため、もがき苦しみながらも変化せざるをえないんだろうと思います。
(そして、おそらくその変化は多くの場合「成長」と呼ばれるモノなんでしょう)

最初はチンピラのようだった双頭バクージャジャが、ウクラマトとの一騎打ちに敗れたあと、それまで自我の核だった「双血の教え」を否定し、以後、トライヨラの人々を護るために活躍していく姿はまさしくそんな描かれ方だったと思います。
(「デレるのはやっ!」とは思いましたが、ベタな流れだったとしても、後半のバクージャジャの見せ場には、正直私は爽快さを覚えました)

ところがどっこいゾラージャは、継承の儀のあと姿を消すこと数週間〜数カ月(?)。
(実際は、黄金郷の扉からスフェーンの世界へ渡って30年経過)

その間、彼は、新たな自我の模索や獲得という目的もないまま、あるいは「奇跡の子であることの証明」という手段(偉大な父を越えるとか、全世界を制圧するとか)を目的化して自我を埋め合わせ、道を踏み外したまま突き進んだのでしょう。

謎技術でパワーアップし、機械生命体Z〇IDSみたいな見た目になったゾラージャは、これまた謎の機械兵士軍団を引き連れ、突如としてトライヨラを襲撃。
故郷の民を多数殺害し、父グルージャジャもその手で殺すという理解しがたい暴挙に出る。

父も、兄弟も、側近も、故郷も、自分の力の源泉であるスフェーンとアレクサンドリアの民も、自分の息子グルージャさえも、最後まですべてを否定し続けた(だけに見える)ゾラージャ。

うーん、、、

決定的に狂ったタイミングは「継承の儀」で敗れた時点なんだろうけど、じゃあ「なんでそこまで『奇跡の子』に固執していたのか」という点は、やっぱりわからん

今後のストーリーに関わる伏線なのか、黄金秘話などのサイドストーリーで語られる裏設定的なものなのか、プレーヤーの想像にゆだねられた余白ということなのか・・・。

c. 救いはあったのか?

ということで、私はゾラージャが狂った真因は「継承の儀より過去のこと」(かつ、それは語られていない)という理解なので、「(今後語られるのかもしれんけど、)現時点ではあまりに救いがない(特に父グルージャジャが)」と思いました。

もし救いがあるとしたら、何が考えられるだろうか?

一応、ゾラージャが死に際に、ウクラマトを「ラマチ」と家族内の愛称で呼び(=家族と認めていた)、グルージャに王権を移譲した(=息子と認めていた)のはわかったけど、2人とも突き放したままなのは変わらず、謝罪や後悔の言葉もなければゾラージャ自身が満足している様子もなかったしなあ・・・。

ただ、ウクラマトがゾラージャに最後に投げかけた「青いフビゴ族は、アンタとグルージャしかいねぇだろ!」というセリフを見返して、「あー、グルージャは『ゾラージャの育て直し』という意味もあるのかなあ」と考えるようになりました。

  • 父王グルージャジャがコーナとウクラマトを養子に迎えた理由の一つには、すべてを突き放すゾラージャに弟と妹を作ってやることで、「息子が将来孤立しないように」という願いもあったのかもしれない
  • その願いは叶わなかったが、もう一つの願い(我が子らの成長)を込めた「継承の儀」を通じて成長し、ともに新連王の座に就いたウクラマトとコーナが、グルージャジャとゾラージャの血筋であるグルージャを、今度は後見人(親代わり)となって正しく導いてくれるだろう

そんな風に考えて、「父グルージャジャにも、息子ゾラージャにも、救い(希望)はあったのかな」と落ち着きました。

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2 その他雑感

  • カットシーンの多さ・長さというのは、私は暁月(6.0)より良かったと思います。
    暁月との違いの1つとして、目線や表情の微妙な動きで感情の機微を表現することが多かったと思うのですが、個人的には7.0の方が自然な演技・演出に感じられ、カットシーンの多さや長さがそれほど気になりませんでした。
  • グラフィックスのアップデートもかなり良かったです。
    靄(もや)や霧でかすむ遠景の空気感、植生や岩肌の質感、装備や服装の質感、ガラス・水晶類の透明感など、世界全体の質感が間違いなく向上しています。
  • ヘリテージファウンドに爆弾列車で突入するところがカットシーンのみだったのですが、ここはやはり何らかのゲーム体験が欲しかったです。
    FF16バハムート戦の3Dシューティングみたいな、というとハードルが高すぎるかもしれませんが、カットシーンだけというのはさすがにシラケました。
  • 自分のメインがモンクなこともあり、ジョブ調整関連で不安を感じました。
    ゲームが動かなくなるという類の不具合ではないものの、7.0実装後に判明したモンクの「一部アクションの条件設定漏れ」は根本的な仕組みに関わる不具合で、決して気付きにくいものではないはずなんですよね。
    7.01で修正するとのことなので、期待しております。

以上 ご参考になれば幸いです。

参考記事

下のリンク先は朝日新聞デジタルマガジンでの吉田P/D特別コラムです。
FF14だけでなく、オンラインゲームに興味があるなら読むと面白いと思います。

もしFF14に興味を持っていただけたら、フリートライアルで始めてみるのはいかがでしょうか?

また、このブログのFF14カテゴリーの簡単な案内を下記記事でまとめているので、一読してもらえると嬉しいです。

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